「ハルヒダンス」は何が評価されているのか?に関して思うこと

アイドルマスター,涼宮ハルヒの憂鬱,アニメ


↓の記事に関して思うところがあったのでひとつ。
※記事を書いたid:kurotokageさんはこの記事内容を取り下げる旨仰っているので殊更に取り上げるのはマナー違反な気がしますが、批判や賛同ではなく単純にこの記事にかこつけて連想したことをを書き連ねるだけなの勘弁してください。

「ハルヒダンス」は何が評価されているのか?-黒く濁った泥水を啜る蜥蜴


ハルヒダンスとそのファンをdisったら有村さんをはじめいろんな人がやってきてさあ大変! というお話。

で、ここからアイマスの話をしますよー。興味の無い人は撤収ー。


1.センスっていくつまであるんだろうね

 id:kurotokageさんはこう仰います

 手や足の動きに反動がある。頭の動きが体の傾きと連動している。そういった本来当然の動きが、人間本来の形とは違うキャラクターの体形あっていません。
 同じことはゲームの「アイドルマスター」にも感じます。このゲームの映像もよくアチコチで見かけますが、アニメチックなデフォルメされたキャラクターデザインとリアルな動きとがちぐはぐで、まるできぐるみを着て踊っているかのようです。

 アニメにしろゲームにしろ、“リアルさ”というものは全体的なバランスが大事だと思っています。
 ゲームにありがちですが、写真のようなリアルな映像でありながら、見えているところに行けないというゲーム的なお約束がギャップを生む。というより、リアルな映像から想像できる“できそうなこと”が実際にはできない時、逆に「リアルでない」と感じさせます。


 この部分にはid:y_arimさんをはじめ色々な人が異論反論を書き込んでいらっしゃいますが、私はアニメ論には全くの門外漢なので技術に関してはパス。
 ただ、アイマス好きの人なら同意していただけると思いますが、この感覚は自分のものとはかなりズレがある。このズレはどこから来て何を意味しているのかを考えてみた、というのが今回エントリを書こうと思ったきっかけです。


 ところで話は変わりますが私はTVアニメを見ません(これは、アニメが嫌いとかそういうわけではなく、私が毎週同じ日同じ時間にテレビの前に座るということができない不精な人間だから。気になったアニメは後でDVD買おうと思ってます)。
 だから実を言うと『涼宮ハルヒの憂鬱』の本編も見ていません。しかし、例によって例に漏れず件のハルヒダンスはものすごく楽しいと思いyoutubeニコニコ動画で何十回と観ましたし、今もたまに観ます。つまり私はid:kurotokageさんが言うところの「ハルヒダンスを本編から切り離して評価しているエセオタク」であるといえるでしょう。

 それを自分で確認した上で考えますが、id:kurotokageさんがハルヒダンスに違和感を感じるというのと、私が「面白い」あるいは「楽しい」などの感情を抱くこととの乖離は、単純に感覚(センス)の違いではないかと思うのですよ。

 「音楽に合わせて人が踊るのを観ると楽しい」という層、というかクラスタは確実に存在します。同じように「踊ってるのが可愛い女の子ならなお良し」という人々も。つまりは私のような。
 そうでなければ太古の昔より「舞踊」「舞踏」というジャンルが「儀式」から切り離された「芸術」として確立してきたことの説明がつきませんし、「踊ってみた」があれだけの視聴数を稼ぎ出しているのも、単に「踊りたい」人が多いだけではなく「踊っているのを見て楽しい」人が多いからこそではないでしょうか。
 ニコマスが人気を博したのだって、ゲームやキャラクターの魅力を知らなくても「やよぴったん」や「とかちつくちて」や「プリブラ」などの歌と踊りに惹きつけられた、「電波ソング」や「シンクロ率」にホイホイされた人が多かったからということは論を待ちません。

 その上で考えると、ハルヒダンス、あるいはらき☆すたダンスの人気というのは、本編を見てそれを踏まえて楽しんでいる人に加え、そういった「踊りを観る楽しさ」を享受している人の支持がプラスされたものと思われます(もちろん「踊りたい人」も)。つまり単純に、技術云々とかじゃなくて、極論暴論になるかもしれませんが「見て楽しいから観てる」んですよ。じゃあその「楽しさ」は理論的にどこからやってくるんだと聞かれれば何も言えませんが、そういう人々を指して「エセオタク」と呼べるかどうかは主観論でしょう。
 そして、理論は関係なく「キャラクターが踊ってるのを見て何が楽しいのか分からない」という人も大勢います。そういう感性を持つことを否定することなど誰にもできないでしょう。これはもうそれこそ感覚の違いとしか言いようがありません。
 もちろん、当該記事のコメント欄にもある「本編のストーリーや構成を踏まえた上でのあのダンスの意味」ですとか「キャラクターのパーソナリティを踏まえた上での意味」はとても興味があるのですが(というか、ネット上で断片的に本編を観るなかで大体分かってしまいますが)、id:kurotokageさんもコメント欄の皆さんも、ブクマの皆さんも、「技術」や「意味」の理論に囚われすぎて「感性」の部分を無視しすぎではないでしょうか。まあ、感性を語ることが暴論で恥ずかしいということを十分承知した上での戯言ですが。


結論:アイマスは楽しい。




2.「愛」ってなんだ?

で、こっから本格的にアイマス論&自分語り。

id:kurotokageさんはこうも仰いました

ハルヒダンス」が“スゴい技術”を使って何を表現しているのかと言えば、登場人物の個性を無視し技術ばかりを前面に押し出した企業のデモンストレーションでしかないのでは?それは展示会場で業者向けにおこなわれる分には十分でも、一般視聴者向けとしてはおかしいのでは?それを支持するアニメオタクはどうなの?と、そう感じずにはいられません。


 ニコマス界隈の皆さん、これ、どっかで聞いたことありませんか?
 私は慈風Pの動画のコメント欄で見ました。所謂「アイマス愛」問題とよく似ているのですよ。
 この問題に関しては自分も色々思うところがあってぐちゃぐちゃしているのですが、タクヲさんが心強い言を残されていてそれを読んで心を落ち着けてはいるのです。
 が、私自身のニコマス紹介動画の中で「技術・労力・センスを見せ付けるのではなくそれらを総動員してキャラを見せるのが素晴らしい」みたいなことを言ってしまったため、上の一文を読んで「自分は『アイマス愛』を振りかざしたdisにコミットしてしまっているのではないか」という思いがまた噴出してきてこりゃ大変だーなのですよ。

 まあ私のことはどうでもいいのですが、id:kurotokageさんの記事を読んで今更ながら、この「愛」問題は創作全般に普遍的なものだよなあと確認した次第で、この感情の解決方法もそこらに転がってないかと無意味な期待をしてしまうのでした。


なんか、自分語りの引き合いに使ってしまったようで、id:kurotokageさん、すみませんでした。


というわけで『ハルヒ』本編を観ていないニコマスファンのたわ言でした。『ハルヒ』は今度DVD全巻買って観ようと思います。

「コメント一覧の日付が見れねーよ」問題について

ニコニコ動画,アイドルマスター,愛m@s24


1.ニコニコ動画の同期性のお話。

 これから書く記事は、多分どなたかが既に話題にしていると思うんですけど、私の検索力では見つけられませんでした。この記事を見た皆さん。そういった記事を見つけたらこっそり私に教えるか見て見ぬ振りをして下さい。決して遠くからウォッチしてクスクス笑ったり突然disったりしないで下さい。お願いします。もしそのような仕打ちを受けた場合、私はとかちの家の洗濯物カゴにダイブして窒息自殺するのでそこんとこヨロシク。


 本当に誰も言及してないんですかね。ググっても開発者ブログ見ても書いてないんですけどそんなはずは無いと思うんですけどね。書いちゃいますけどいいんですかね。

 いや、実は「ニコニコ動画のコメント表示欄で日付が見えなくなってた」問題なんです。いやそこ「うわ今更その話かよ」とか言わんで下さい。

 言及しておられるのがニコ動、それは人の心を癒すさんくらいしか見つけられなかったんですけどね。この処置、今ではもうコメント欄を短くしたら短くしたで状態を保存できるようになったのですが、元々の目的はおそらく「ニコニコ動画の擬似同期性」のためだと思うのですよ。
 どうでしょうか、他に言及されてる人が絶対いると思うんですけどね。これで「その話題は私が3日前に通過した場所だ」とか言われたら恥ずかしくてあずささんの91で窒息自殺したくなるんですけど。

 ニコニコ動画における擬似同期性については、この記事とかこの記事とかが詳しいです。要するに、「ニコニコ動画のコメントは、実際には掲示板と同じく時間を分断して書き込まれているが、それらが画面上に一斉に現れることであたかも全員が同時に動画を視聴しているかのように見えてしまう」性質のこと。
 ニコニコ動画の特徴的なコミュニケーションシステムとして早くから取りざたされていたこの性質なのですが、一つ問題があったはずなのです。

日付が見えると「萎えて」しまうんです。


・昔にUPされた動画を見ている時、周囲のコメントが全部1年前のものとかだったりすると寂寥感に苛まれる。

・同意したいコメントがあっても、もうすぐ消えてしまうコメントで、「↑同意www」と書いてもすぐわけが分からなくなることが見え見えなのでためらってしまう

弾幕が張ってあるのを見ても、全部同一時間で「うわ……一人弾幕……(´・ω・`)」とか思ってしまう。


 つまり、「擬似同期性が本当に『擬似』であることが白日の下に晒されてしまって、知りたくない事実を知ってしまった感を味わってショボーン」という問題だと思うのです。
 もちろん、上の例のどれを見ても、「下らないことに敢えて目をつぶっていたのに本当に下らないということを暴かれてしまって落ち込んでいる」という本当に下らない問題なのですけど、表層的に楽しさを演じる/楽しさが表層的であることに目を瞑ることって大事だと思うのですよ。生きていく上では。

 で、日付を『見えなくする』ことで解決を図ったと。この「見えなくするに留める」というのがこの対処における味噌で、「消してしまう」と逆にそこに存在していたものを意識してしまって、「『擬似』が擬似であった」事実が大々的に認識されてしまうのではないかと思うのです。
 ニコニコ動画ももうすぐ生誕一年半となり、『古い』動画、『古いコメント』という考え方が生まれています。(たった一年半なんですけどね。そういえば去年の冬あたりに、古くてコメントの無い動画は見えなくなるという制度がありましたね)
 そこで、ニコニコ動画の大きな特徴であり面白さの源泉である「擬似同期性」を担保するために、例の措置が取られたのではないかと。

 ただ、大きな批判を浴びたのも仕方のないことで、「常に最新のコメントをチェックする」スタイルの視聴者には圧倒的に合わない。私なんぞは自作の動画のコメントは毎時間チェックしたいくらいなので(実際は週一回チェックすればいいくらいの数しかつきませんが(笑))、日付で並び替えるのに一々バーをいじらなければならないのは非常に面倒でした。
 で、この度コメント欄の長さを調節した場合その長さが保持されるようになったのは、この「擬似が擬似であることに敢えて目をつぶって『同期性』を確保する」のか、「チェックのためのユーザビリティを確保する」のかの選択ができるようになった、というのが真相だと思うのです。


 ……とまあ考えるのですが、どうでしょう。本当にこう言っている人は他にいないんでしょうか。
記事があったら是非教えてください。すぐにこのエントリ消しますんで^^;



2.『愛m@s24』の同期性のお話。

 mame-tanukiさん竹居さんがお話されていらっしゃいますが、今回の『愛m@s24』は「ニコニコ動画において『擬似』同期性ではなく本物の同期性を追い求めた企画」であると言えます。
 「何千人もの人が一斉に同じ動画を視聴しているように『見せかける』」のではなく、「本当に何千人もの人が一斉に同じ動画を見る」状況を作り出したわけで、これはニコニコ動画において画期的な動画視聴方法だったわけです。

 で、4日経って今更『愛m@s24』に触れるのは例の日付見れねえよ問題に関ってくるわけで、「『擬似』であることに目を瞑ることによって、いつでも『愛m@s24』が楽しめる」というメリットがあるのですよ。
ええ、もちろん詭弁です。時間は過ぎ、IRCでも2chでもtwitterでもあの話題はもう過去のものです。あの時我々が共有していた感動はもうそこにはありません。『擬似』はどこまで行っても『擬似』でしかないのです。
 しかしですよ。敢えてそこに目をつぶることで、あの感動は見せ掛けだけでも共有できるのですよ。あの日仕事でどうしてもPCの前に居られなかった人も、途中で寝てしまった人も、そしてあの後にニコマスにハマった人も。
 日付が隠れているだけで、あのOP動画を開けばそこはもう『愛m@s24』なのです。あのときのような異常な一体感は無い、いつものニコニコ動画における『愛m@s24』です。その企画の持つ意味はきえてしまいましたが、少なくとも外見はいつまでも残る楽しいお祭なのです。終わりの無いお祭なのです。

 それはいつか来るであろう『ニコマス』という名のお祭の終わりに目を瞑っている事実の寓話の様でもありますが、何度も言いますが少なくともこういう目の瞑り方は生きていく上で大切だと思うのですよね。


 まあ、とにかく、「今を楽しめるような形」を模索する運営GJ。ということです。




 と思うのですが、違いますかね。全然違う理由があったりしませんかね。そうだったらすぐ教えてください。すぐにこのエントリ消します^^;;


※6/19 追記
 謀らずも神が降臨した上にうちの嫁が「一度世に発表したものを軽々しく消すべきではないと思います。それといい加減私の体型をからかうのは止めて下さい、そもそも私は(ry」と言ってきたのでこの記事は消えません。

では私はブルマ穿いた嫁に三角締めされる作業が残ってるのでこれで