「好き」って気持ちはそんなに重要なのかどうか

まなめさんの纏めで気になるエントリを見つけた。

「好きなもので自分を語れよ」という言葉がきらい - さまざまなめりっと - はてなグループ::ついったー部


hexagonzero 嫌いなものじゃなくて好きなもので自分を語れよってあるじゃないですか。おれあの言葉がなんとなくきらいで。なんでかというと、好きなものって心の宝箱の底にそっと隠したキラッキラの宝石じゃないですか。そんなねえ、たやすく人様に見せるもんじゃないでしょうが。


hexagonzero それに、大したものじゃなかったりするわけですよ。それを見せろだなんて。デリカシーないにもほどがあると。宝箱のキラキラは、出したら色あせるんだよ。それを知らない人間の、うわべだけの言葉なんですよ。ほら、ためしに出します。おれ出す。どんだけ色あせるか、ためしに出すから。

hexagonzero 東大、超絶美人、おっぱい、治療中に顔に当たる。


hexagonzero これだけ。三十八年生きてきてこれだけ。これでどう自分を語れというんだよ。そんなの無理だろ? これで語ったら、お前ら毛虫を見るような目でおれを見るだろ? もうほんと、あの「嫌いじゃなくて〜」は、人を毛虫にさせてしまう、悪魔の言葉なんだよ。

で、自分はブコメ

gouzou 人 好きか嫌いかで見えてくるほど人間とは簡単なものじゃない。単に「何かを好きでいる様を見ている方が心地よい」というだけのことに過ぎない。「俺が気持ちよく過ごすために、『何かを嫌いであること』を公表するな」

と書いたんだけど、それも何か違う気がしてここのところ2日間ほどずっと考えてた。


 
 自分にとっての「好き」って何なのか。それはどういった意味があってどういった結果を成しているのか。



 なんか、思うところがあるのでつらつらと書いてみる。




○『好き』って何だ。それは意味あるものなのか

 「好きなことで〜」には色々と前提が必要なんだと思う。「人は共感を欲する生き物だ」とか「『嫌い』で共感し合っている人間は醜く見える」とか。

 
 それに、ブコメで有村さんが言ってるように「好き」「嫌い」と言っても色々あって、時には表裏一体だったりして、例えば差別が大好きで差別心を共有し合っている人々が集まる場にブクマが付きまくって「嫌い」を共有し合っているなんて事は日常茶飯事だったりする。『これはひどい』タグがたくさん付いているブクマなんてみんなそんな感じだ。


 となると、「好きなことで〜」という言葉自体がひどく曖昧で、これまたブコメで何人かが指摘しているようにあまり意味あるものではない気もしてくる。


 それに、「人」を表現するのは「好き/嫌い」だけじゃないし、何かを「嫌い」と表明するのは「表現」ですらない事だってある。場を荒らしたいだけだったり、煽りだったり、チラ裏がうっかり外に出てしまっただけだったり。


 考える程、「好きなもので自分を語れ」という言葉が、というより「好き/嫌い」という気持ち自体が意味のない物に見えてくる。概念自体が曖昧で、存在していないわけではなかろうけど、それを何か価値として語ることそれ自体には意味がないようにも思える。



○『好き』な物をを否定されるのは怖い

 hexagonzero氏の「東大、超絶美人、おっぱい、治療中に顔に当たる」⇒「東大出身で超絶美人の歯医者のおねえさんのおっぱいが治療中に顔に当たる」と解釈しちゃうけど、あながちわからいでもない。自分の場合は東大出身かどうかはどうでも良くて、おっぱいが顔に当たることよりも口の中にお姉さんの指が突っ込まれることに興奮されるタイプなんだけどまあいいや、確かに、性癖の中にはあんまり他人に見られたくないような物もあるし、見られて蔑まれるのは耐え難いし、そういう風に蔑むのが趣味な連中もいてままならない。


 自身の人格が蔑まれることは怖いけど、「好きな物」を馬鹿にされること、「好きという気持ち」を否定されることはもっと怖い。

 
 自分はこのブログでとあるゲームの二次創作をより多くの人に楽しんでもらうために紹介活動をしている。前回のエントリとかでも思いっきり「好き」を曝け出しちゃってるけど、「でも、例えばそのゲームを知らない人にとって、『一般人』にとって、自分は酷くキモく映ってるんじゃないか」と内心怖いのも事実だ。ナメクジを見るような目で見られているんじゃないかと。何も効果が無いどころか逆効果なんじゃないかと。


 普通は、「嫌い」を語る人間は醜く不快に見えるけど、人によっては「好き」を語る人間が醜く見えることもある。


 そういう意味じゃ「たやすく人様に見せるもんじゃないでしょうが」というhexagonzero氏の言には本当に共感できる。



○「好き」だからどうした

 その気持ちは空虚ではない筈。でも、「好き」だからどうした? とも思う。


 本当に重要なのは、「好き」「嫌い」を糧にして何を成すかなのかもしれない。



 例えばガソリンは、ただそれだけでは意味を成さない。好きでいる、嫌いでいるだけでは何も起きない。
 大事なのはその燃料を空気と混合させ、圧縮し、爆発させ、ピストンを動かし、クランクシャフトを通じてギアを回す、『エンジン』という機構を稼動させること、ではなかろうか。


 あるいは、エンジンもそれだけでは存在する意味がない。
 ギアからクラッチ、プロペラシャフト、そしてタイヤを動かして自動車を前進させるか、あるいはスクリューを回して船を動かす等しなければ。

 
 さらに、車や船を動かすだけでも意味がないかもしれない。
 人を運ぶのか、物を運ぶのか、速く動くことそれ自体が目的か。


 何をどこまで目的として見据えて活動するのか。あるいは活動する必要自体があるのか。
 何を表現するのか、表現してどうするのか、そもそも表現しなければならないのか。


 そしてそうなってくると、最初の燃料が「好き」なのか「嫌い」なのかはそんなに問題にならない気もしてくる



○「好きな物で自分を語れ」←

 やはり「好きな物で自分を語れ」という言葉自体が、nouzem15氏やyogasa氏の言うように無意味なのだろうな。「好き」ということそれ自体を表明することにはそんなに意味がないし、怖いし、何かを表現しなければならないという決まりがあるわけでもない。「そもそも自分を語りたいわけじゃない」という返答だってありえるわけだし。



○ただ自分の場合は

 「じゃあお前が今までやってきたことは何なんだよ」と言われそうだけど、しょうがないんだよ。漏れちゃうだけなんだ、俺の場合

 
 言い訳じみてくるけど、そういう人って多いと思うんだ、何かが好き過ぎて「好き」が外部に漏れちゃう人、それがたまたま何人かの共感を得てしまって、漏らしちゃうのが楽しくなってくる人、漏れちゃう様を見る事を楽しみにしちゃう人。


 今のネットって、そういうものをそれこそ「表現」しやすい場で、同行の士が集まりやすい形になってる。でも逆に『醜い』ものが目に付きやすかったり、本当に見せちゃいけない人に見せちゃいけない物が届いちゃうこともある。それで他人に迷惑をかけてしまう可能性もある。


 そういうのってすごく怖くて、だからこそ「好き」を表現することを躊躇う人も多いと思う。けど、自分の場合はやっぱり「楽しい」が勝ってしまっている。同好の輪の中で遊ぶことが、その輪を広げることが。


 何かを好きで、それで自分を表現したい人ってのは、「好きな物で自分を語れ」って言われる前にもうやっちゃってるんだ、きっと。やり方が分からなければ、ググればすぐに色々と表現の場が出てくる時代だし。ブログでもtwitterでもustでも動画投稿サイトでも。


 それでもやっぱり、「同好の士」以外の大多数の人にとっては「出力された物それ自体」のみが大切で、その原動力が何であったかなんてどうでもいいんじゃなかろうか。

 だから、やっぱり「好きな物で自分を語れ」という言葉は意味のないものじゃないんだろうな。




 そして、「好き」って気持ちも、車にとってのガソリン程度には重要で、でもガソリンは他の物で代替可能で、でもやっぱりガソリンで走る車は魅力的で、その程度には重要なんだろう。